学芸課の高野靖彦と申します。歴史分野(災害史・山岳史)を担当しています。
低い山に登り、近くから雄大な峰々の景色を楽しむのが好きで、県内のあちこちに出没しています。
このページでは、博物館だよりの編集後記を題材として、「もうひとつの博物館だより」をお届けいたします。


大辻山の山頂から立山を望む

  2005年は桜の開花が少しばかり遅く、近年ではいつもは4月10日前後に咲いていた南砺市蓑谷のコシノヒガン自生地へ17日、観に行きました。
 場所は曳山会館のT氏に教えていただいたので、すぐに辿り着きました。川沿いにある、このコシノヒガンは実は自生ではなく、千葉から移植されたものと、この山の持ち主から教わりました。
 間違いやすいのですけれど、こちらが自生したコシノヒガンです。山の斜面にひっそりと咲いており一面に咲いてはいないのですが、このポツポツ感がまた郷愁をさそいます。
 県指定天然記念物の桜は、氷見の駒つなぎ桜と宇奈月の明日の大桜とこの桜も指定されています。、
 この日はとても天気が良く川沿いにクサソテツ(コゴミ)がたくさんなっていました。天ぷらでいただきました。
 蓑谷から桜ケ池の途中に多くの人が集まっていました。これが「向野の大桜」で、地元ではかなり有名なようです。
写真を撮っている人も多く、かなり混雑していました。 私は車中から撮りましたが、偶然にも背後に「袴腰山」が見えました。
 袴腰山は5年ほど前に登りましたが、往復2〜3時間ほどのお手軽な山です。安政5年の飛越地震で影響をうけた山としても知られています。
番外編

私が毎年訪れる「県中央植物園」の夜桜鑑賞会です。
 池の水面に映った桜が何とも言えず美しいので、毎年家から歩いていきます。(家から近いのです。でも今年は寒かったので車で行きました。)
 多くの人でにぎわいますが、この鑑賞会は無料なのでおすすめです。また、富山市婦中町の自然公園も散策に良いですよ。 
 博物館では「立山カルデラ砂防体験学習会」として年32回の見学会を計画しています。その準備と研修をかねて6月に生まれて初めて立山カルデラに入りました。天候に恵まれ、六九谷から見る峰々の美しさと崩壊地の荒々しさのコントラストは想像をこえるものでした。正面右が「龍王岳」で、かつてカルデラでは水源地として雨乞いの祈とうが行われていました。手前の多枝原平は鳶崩れでできた台地で、多枝(だし)とは土砂が押し出されたという意味。もろい岩肌は今も崩れています。
 空梅雨かと思っていたら、6月末に大雨が県内を襲いました。雨が落ち着いた6月30日の朝、学芸課数名で常願寺川の様子を見てきました。
 真川大橋から見た瀬戸蔵方面(上流)を見ると、川が赤くにごっていました。古くは赤い川のことを「ニフ(ニウ)川」とよび、そこからニイカワ(新川)という語が生まれたとする説がありますが、まさに「ニフカワ」を実感しました。
 ちょっと朝からナイアガラの滝へ・・・ではありません。同じ日の「本宮砂防えん提」の状況です。このえん堤は流出土砂で下流の河床が上昇するのを防ぐために昭和12年(1937)に竣工しました。貯砂量500万立方メートルは日本最大です。この時は映像も撮影しましたが、ものすごい轟音で吸い込まれそうな恐怖感を覚えました。かつて幾度も大洪水で富山平野を苦しめた暴れ川の一端を見たような気がします。
番外編

 7月に馬場島から「中山」に登りました。山頂まで1時間ほどで、体力ない私にはぴったりの山です。ここから眺める「剱岳」は最高!・・・のはずだったのですが、この日はガスで見えませんでした。(残念)
 剱岳の古名が剱御前。かつては立山と同じく信仰の対象とされてきました。
 今年は大辻山、牛岳、御前山などを歩きました。個人的に好きなのが白木峰。ちなみに大長谷で採れる山菜は絶品ですよ。

  博物館では立山カルデラの自然・歴史、砂防に関する資料を収集を行っています。歴史分野では、安政の災害に関する古文書、絵図や常願寺川の治水に関する記録、また立山周辺の山岳史・古道に関する写真、映像、絵図、道具などの資料を収集しています。情報をこちらまでお寄せいただければ幸いです。

 博物館では安政の災害に関する古文書や絵図のデジタルベース化と翻刻に取り組んでいます。前任者のS氏、U氏と引継がれ、今年は所蔵者からご快諾をいただき、立山町郷土資料館で『宮路金山家文書』の土・木部分の残りを撮影しました。
 金山家文書は、安政の災害だけでなく、デ・レイケによる改修工事以前の常願寺川の治水について多くの事柄が記されています。図録としては『六郎右衛門と茂左衛門−両家と常願寺川とのかかわり(立山町教育委員会2001)』があります。
 文書目録と照らし合わせ、ラベルとともに撮影します。H氏と2人で2日間にわたり作業を行いました。                 古文書等から分かる過去の地震を「歴史地震」とよびます。最近では近世の日記記録から地震回数、規模をデータ化し、地震周期を明らかにする研究も進んできました。日記に毎日の天候と地震が記されるようになったのは寛文年間(1661〜1672)からのようです。ただし、統一された震度はなく、個々で自由に記しています。
 県内の歴史地震は貞観5年(863)に『三代実録』にみえる「越中・越後等の国、地大いに震う」が初見で、天正13年(1586)には推定M7.8の地震が襲い、木舟城や帰雲城が灰燼に帰してしまいました。博物館では、安政5年(1858)の飛越地震とその原因となった跡津川断層をテーマにフィールドウォッチングを実施しています。これは「大場の大転石」とよばれ、泥洪水によって上流から運ばれてきた巨石です。奥に見える堤防がデ・レイケがつくった「霞提(かすみてい)」の一部です。
番外編

 秋に白山に登りました。近年は砂防新道が人気ですが、私はかつての禅定道とつながる観光新道を利用しました。御来光は雲の中からでしたが、霊山にふさわしい威厳を感じました。
 立山と白山。古くはタチヤマとシラヤマ。声に出すと美しさを感じませんか?ちなみに学芸課のT氏は「郷里小松から拝する白山が一番!」と力説。たしかに日本海から遥拝する白山もすて難いですね。
 
 12月に日本博物館協会の研究協議会歴史部門に出席しました。4番目の国立博物館としてオープンし世間の耳目を集める「九州国立博物館」で行われました。展示解説は公募されたボランティアが行っています。また、アジア文化の拠点として韓国、中国、台湾語にも対応しています。研究協議もこれからの博物館とボランティアのあり方が話題の中心となりました。
 素晴らしいアイデアだと思ったのが、この「あじっぱ」。アジアの原っぱという意味だそうですが、子どものための展示室となっています。歴史の展示は歴史を前面に出せば出すほど堅いイメージとなり若者に敬遠されてしまいます。そこで発想の転換!常設展示とは別に、子ども用の展示室(遊び場)をつくってしまおうという訳です。ここでは楽しく遊べ、しかし気がつくと歴史を学んでいるのです。
 日本の博物館もこうした遊び心が必要となってくるでしょう。
 3日目は観光地、長崎へ。最近オープンした「長崎歴史文化博物館」で研究チーフの方に指定管理者制度の現状についてお話を伺いました。
 外観は奉行所を模したものですが、さながらお城のようでした。最近は富山市郷土博物館や佐賀城本丸博物館など全国的にはお城ブームのようですね。しかし、どこの館も工夫を凝らしています。学芸課としてはこうした面と地道な調査研究をどう両立していくかがテーマです。
番外編

 九州国立博物館は大宰府にあります。大宰府といえば、33歳の若さで当時の学者の最高位である「文学博士」についた菅原道真を想起します。これは天満宮境内にある有名な飛梅。「こちふかば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」と詠んだ都の庭の梅木があるじのあとを追って飛来してきたと伝えます。
こうした伝承は大事にしたいものです。
博物館だより NO,28
博物館だより NO,28
 当館に貴重なかんじきの資料約80点をご寄贈いただきました。これらは佐伯邦夫氏・橋本廣氏が長年かけて収集されたものです。かんじきは深い雪上を歩くための道具で、雪量や地形の違いから土地柄と人々の工夫が反映されています。
 私が面白いと感じたのは、このパキスタン(カラコルム山麓フーシュ村)のもので、形態が新潟の「すかり」に似ています。輪材がヒノキ類、乗緒(靴をのせる紐)が獣皮でできています。
 これは芦峅のかんじきで「立山かんじき」と呼ばれています。豪雪と向き合ってきた人々の知恵が凝縮されており、その丈夫さから山男の絶対的信頼をえてきました。
 複輪(2つの輪を組み合わせる)で、輪材はクロモジ、乗緒は麻縄です。両側にはナラの爪(つめ)がつけてあり、この爪が長いのが特徴です。立山の雪はとても深く、柔らかいためです。他地方では爪の長さを調節することもあります。
 博物館では冬のイベントが充実しています。これは2月の「トロッコに乗ろうよ!」の様子です。希望者は帰りにスノーシュー(西洋かんじき)をはき、常願寺川沿いを歩きながら植物の観察を行いました。スノーシューはプラスチック製で軽く、とても歩きやすいですね。
 さて、真ん中の方の足元をよく見てください。ここに西洋と日本の「かんじき競演」が実現!かんじきは結び方にも人によって工夫があります。こうした「楽しみ」はスノーシューにはありません。
番外編

 1月に学芸課で岐阜県へ研修旅行に出かけました。快晴に恵まれ、新穂高ロープウェイで西穂高口へ。標高2909m、西穂高岳がまぶしく見えました。実は私が最初に登ったのは、立山なのですが(越中男子の証ですね)、2番目に登ったのが、西穂高岳なのです。独標までは快適なお花畑、さらに山頂からは笠ケ岳、焼岳、乗鞍岳などが一望できる素晴らしい山です。
 私は毎年、大辻山に登るのが慣習になっています。お目当ては、山頂から望む立山連峰のパノラマです。
 大辻とは、北と西からの山道の交差点のことでしょうか。正面が大日岳です。かつては、修験者がここから稜線伝いに大日岳、さらには立山へ向かいました。大和吉野の金峯山(きんぷせん)になぞらえて「金峯山修行」とも呼びました。蓬沢(上市町)では、大日頂上の祠からミトロ山(御堂山)と呼びました。大日岳には修験者の跡が色濃く残っています。
 博物館では6月に「春の材木坂と美女平」と題し、フィールドウォッチングを実施しています。材木坂は立山駅裏から続く急な坂道です。途中の熊尾権現で清水がいただけましたが、現在はルートが変わっています。(今は駅前で飲めます)
 かつて、この坂は女人禁制であり、それを犯したために材木が石に化したという言い伝えがあります。記録上は明治6年に深見チエさんが女性として初めて立山に登ったとされます
 山散策のひとつの楽しみは、「出逢い」です。特に可愛い植物との出逢いは、心が和みます。
 材木坂の途中で、ギンリョウソウ(銀竜草)が、ひょこり顔を出していました。別名はユウレイタケですが、本当にユウレイのように白く透き通っていますね。冬の立山の極寒に耐え、春に花を咲かせる、こうした小さな植物には、本当の強さが秘められているのかもしれません。
番外編

 企画展の資料撮影のため、富山大学附属図書館の「ヘルン文庫」を訪れました。ラフカディオ・ハーンの蔵書約2500冊がきちんと整理・保管されており、「これは富山県の宝だ!」と納得しました。全集が揃っているのも特筆されますが、この蔵書がここに存在している経緯をもっと広く県民に知ってもらうべきだと思います。そこには馬場はる氏をはじめとする先人の熱き想いが込められています。
博物館だより NO,28
博物館だより NO,28
 常願寺川右岸の立山町日置に「安政大水害 百年記念碑」がひっそりと建っています。昭和32年4月、公選第3代・吉田実知事が揮毫したもので、「治水精神の高揚と災害の絶無」が祈念されています。安政5年、大鳶山・小鳶山が地震で崩壊しました。写真では見にくいのですが、この碑から立山カルデラの「鳶崩れ跡」が遠望できます。碑は長年の風雪で傷んでいますが、刻まれた字は、はっきりと読むことができます。
 博物館の体験学習会では、立山温泉跡を見学します。その薬師堂跡には、飛越地震で立山温泉にいた33名の木こりと3名の狩人が生き埋めとなり(「杉木文書」)、昭和59年、念法寺(富山市本宮)にある供養塔と同じものが建立されました。ここでは参加者と共に犠牲者の冥福を祈ります。この他、立山カルデラの多枝原には作家・幸田文「崩れ」の文学碑があります。
 立山温泉は江戸時代後期に広く庶民に解放されました。文政6年(1823)、深美六郎右衛門が温泉本方となり、年間1万3千人利用したとあります。明治2年(1869)、深見六郎が温泉を再興。 しかし、深見家の経営方針は、儲けより「霊泉による万人の救い」が優先されました。大正6年、「立山温泉株式会社」が設立され、方針が大きく変化します。前年には当時、珍しいタイル張りの洋風浴場が完成しています。写真手前が女性用、奥が男性用の浴槽でした。
番外編

 11月、暖冬を見計らって薬師岳登山を決行したのですが、前日に雪が降り、薬師峠前で撤退しました。空はすっきり晴れて、初冠雪の薬師岳と奥黒部の山々が神々しく見えました。薬師岳の古名は「神崎山」で、もとは岳の山神でした。そこへ薬師信仰が入り、次第に民間信仰の側面が強くなっていきました。右が黒部五郎岳で、越中では古名「鍋岳」。そのカールの美しさは絶景とか。ぜひ登ってみたい山ですね。 
博物館だより NO,28
 今夏、第17回企画展「異人たちが訪れた立山カルデラ」を担当させていただきました。明治時代、なぜ外国人がわざわざ立山へ来たのだろうか?という素朴な疑問が企画展のきっかけでした。
 その準備段階で「どうしても立山温泉の建物を復元したい!」という想いが出てきて、払拭できませんでした。
 復元作業はアメリカの天文学者ローエルが撮影した写真を手掛かりに、業者もリアリティーを追求してくれました。
 これは展示解説会の様子です。完成した立山温泉の建物は、当時の雰囲気を充分に醸し出していました。
 安政5年(1858)、立山温泉は鳶山の崩壊土砂で埋没し、その後、湯川の流路は南に移りました。明治5年、木村立嶽が立山温泉を訪れ、詳細な描写を残しています。その図には埋まった場所が示され、「弐十丈斗(約60m)」下とあります。近年のレーダー探査で鳶山の土砂がその付近で60m近く堆積していることが分かりました。
 明治時代の外国人は、ザラ峠(2348m)を越え、立山カルデラに訪れました。 そこで企画展関連の行事として「平成のザラ峠を歩こう!」を8月に実施しました。室堂平からの一般コースで、立山ガイド協会の多賀谷治氏に案内していただきました。これは「獅子岳」から見た後立山山脈と黒部ダム。獅子とは、神社に狛犬があるように神を守護する意味がある名です。初日は晴天に恵まれました。
番外編

 湯川上流から見る立山カルデラは迫力があります。カルデラ展望台は松尾峠、弥陀ヶ原にもありますが、室堂山からがオススメですね!               写真中央が湯川です。今も温泉が湧き出ており、周辺での火山活動を実感します。また、ザラ峠南東の「ヌクイ谷」は古文書には「温谷」とあり、ここでも温泉が湧いていました。「ぬくい」とは富山弁であたたかいという意味です。
博物館だより NO,28
博物館だより NO,28
博物館だより NO,27